「 なんでオーストラリアまで行ってオパール屋さんになったんですか 」
初めてお目にかかる方に、必ずと言って良いほど尋ねられることです。
なんで、
オーストラリアで?
オパール?
なのか。
今日はそんなお話もふまえて、あらためて自己紹介をさせていただきます。
お時間のある方、お付き合いください。
新幹線が開業し、東京オリンピックに日本中が沸き返った昭和39年、1964年
この世に生を授かった私、今年53歳になる予定です。
海と魚の好きな、どちらかと言えば理系な子供でした。
テレビで見る海の中の世界にあこがれ、将来の夢は何になりたいの、と問われれば、
「 ダイバーになりたい 」
と答える、そんなヘンな子供でした。
そんな夢を持った子供は、やがてヤンチャな中学、高校生活を経て、夢に近づくべく東京水産大学(現東京海洋大学)に進学します。
入学後は受験生活の反発か、まったく勉強もせずひたすら海へ、そして念願のダイビングのライセンスも取得します。
そうなると大学のある品川などには寄り付きません。
ひたすらバイトと海の生活。
宮古島で出会った漁師さんとサメ漁のお手伝いをし、小笠原に渡っては亀の養殖場でウミガメたちのお世話をする毎日。
そんな今思えば、まさに夢のような生活。。。
大学2年の時、インストラクターの資格を取得、ダイビングを教える立場になりました。
そのころは空前のダイビングブーム。
新橋のダイビングショップにアルバイトとして雇われ、毎週末は伊豆の海洋公園で何十人もの皆さんに海の素晴らしさをお伝えしていました。
そんな生活は、大学4年の専攻課程に進んでも続きます。
平日は真っ暗な部屋で一人、電子顕微鏡を覗き、週末は真っ青な海へ
そんな生活です。
それでも、素晴らしい指導教官の先生に恵まれ、不真面目学生の私も無事卒業することが。
まだまだ社会に出たくない!学生でいたい!!
そんな消極的な理由で同じ研究室の大学院へ進みます。
当時の研究テーマは、「魚の病気の原因となるウイルス」を見つけること。
たくさんの魚を解剖し、そこから採取した細胞を培養することから始まり、病気の魚から抽出したウイルスを感染させて観察する、そんな地味~な毎日。
当然、そのままじっとしていられるわけがありません。
いつのころからか、学生時代同様、海でのバイトに生活の重心は移って行きました。
夏の時期などは、伊豆大島に行ったきりひと月以上も帰らず、指導教官の先生から、「 教授がご立腹だぞ。すぐに帰ってこい 」とおしかりの電話までいただくことも。
その後、少しは自粛しまじめ(を装った)な研究生活に戻り、なんとか2年で修士過程を終了することができました。
今考えても、奇跡としか言えません。
教授の冷ややかな視線と、学費を出してくれている両親の手前、さすがに博士過程まで進むことは考えず、遅めの就職活動を始め、これまた奇跡的に中堅の製薬会社の研究開発部に職を得ます。
時はバブルの尻尾の時代、そこそこな給料をもらう代わりに、終電当り前の激務の毎日。
「 このままでは死んじゃう 」
精神的にもまいってしまった私は、周囲の反対も聞かず2年で辞職してしまいます。
そして、アルバイトをしていた新橋のダイビングショップのオーナーのひとこと
「 オーストラリアのケアンズにお店だそうと思うんだけど、お前下見に行ってきてくれない 」
これで決まりでした。
憧れのグレートバリアリーフ、もちろん拒む理由などありません。
まだまだ一般的ではなかった “ ワーキングホリデー ” という制度を利用し、オーストラリアに一年間滞在することに決めます。
サラリーマン生活でそこそこ貯めた貯金を手に、オーストラリアのシドニーへ渡ったのが1988年。
申し込んでいた3か月の英語教室に挫折し、なけなしのお金で手に入れた中古の “ ケンメリ ”を駆って、一路ケアンズへとシドニーを出発したのは、渡豪してひと月目の1989年の1月でした。
経済的理由で、ゆっくりと見て回りながらなんて旅をすることもできず、食パンだけの食事や、突然の嵐の中、飛ばされないように一晩中テントを抑える、そんな生活を10日ほど耐えて、あこがれのケアンズへ到着も、想像以上のその暑さに強烈に打ちのめされました。
運良く、地元のダイビングショップに仕事を得、言葉のいらない水中の世界、いろいろな国の人たちにダイビングを教える生活が始まります。
ですが、そんな計画通りの日々も長くは続きませんでした。
ある日突然、そのダイビングショップから解雇されてしまったのです。
今思えば、やっぱり英語の能力が足りなかったんでしょう。。。
さぁ、困った。
口座にはもう2万円ほどしかありません。
このままでは、スゴスゴと日本へ帰るしかないのか?!
いや、この所持金では帰ることもままなりません!!
もう選り好みしている場合ではない状態に追い込まれ、仕方なく仕事を始めたのが、
オパールも扱う免税店、
だったのです。
オーストラリアブームの真最中だった日本からも多くの観光客がやってくるケアンズ。
日本語さへ話せれば、こうした免税店やお土産屋さんの仕事はいくらでもありました。
不本意ではありましたが、生活するためには仕方ありません。
何の知識もない “ 酒・たばこ ” 、“ グッチやディオール ” といった免税品から、“ チョコレート ” から “ ケン・ドーンのTシャツ ” なんてお土産まで、日本の観光客に販売する毎日が。
もともと、販売経験のない私、話術や販売技術でものを売ることはできません。
ひょっとしたらこの頃が一番勉強したのでは? というくらい商品について学び、それをひたすらお客さまに伝えることで品物を買っていただくことしかできませんでした。
そんな勉強が良かったのか、お店の売上1位2位を争うくらいになり、そのままビザを取って働かないかというオファーをもらうまでに。
もとより、日本にまだ帰りたくなかった私は、喜んでそのオファーを受け、一年のワーホリ期間が過ぎた後も、そのお店で働くこととなりました。
そのお店、今ではもうありませんが、いくつも支店を持つ、当時オーストラリアでは一番の免税店、そしてオパールの取扱量も一番の会社でした。
いつまでも20ドルのシーバスリーガルや10ドルのチョコレート売るのがバカらしくなっていた私は、会社にオパール売場に移りたいことを伝え、いつしかオパール専門の販売員となっていきます。
毎日、様々な表情、いろいろな色彩を見ているうち、オパールの魅力にドップリとハマってしまった私
ここが、現在の私の原点です。
その後、シドニー本店への移動、そして日本の関連会社への転職も経て2003年、オーストラリアで自らの会社、Gemstory Pty Ltd を立ち上げました。
2000ドルのなけなしの元手で手に入れた約20ピースのブラックオパールルース、そして何故か気に入ってもらった現地オパールディーラーから借りた40ピースのルースで、小売店 ジェムストーリーをゴールドコーストにオープンしました。
家賃の安い2階だったため、まったくお客の来ない日が続くこともありました。
でも、周りの人たちの協力のおかげで、少しずつオパールの在庫量も増え、多くの鉱夫たちとも知り合うことができました。
この頃、このお店での出会いがあったから今の私がある。
そんな大切な宝物をたくさん得られた時期です。
開店当時の旅行雑誌に載せた広告です。
2004年には、オンライン店オパールダイレクトを開始し、手探りながらネットでの販売もスタート。
その後、店を1階の路面に移し、2013年6月に閉店するまで、日本の皆さんはもちろん、世界中の方々とのたくさんの思い出を作ることができました。
賃貸契約の終了をきっかけに、卸とネットに集中することを決め、そして2015年1月、日本の拠点となる 株式会社ジェムストーリーを創業します。
気が付けば、そんなジェムストーリーも今年で創業2年。
早いものです。
学生時代の私を知る友人からは、
「 お前が接客業、しかも宝石屋なんて信じられない !」
両親からは、
「 何のために大学院まで行かせたのか ・・・」
そんなオドロキや歎きの声しきりですが、こんなにも美しいオパールに出合い、ここまでドップリとオパール漬けの生活を送ってこれたこと
これも “ 私の運命 ” なんでしょう。
あのまま製薬会社にいれば、、、
とか、
ケアンズのダイビングショップをクビにならなければ、、、
なんてこと、想像することもあります。
でも、オパールと出会ったこと、そしてオパールを通じて出会った多くの人達のこと考えると
「 なんて自分は幸せなんだろう 」
そう感謝せずにはいれません。
ちょっと長くなってしまいしました。
お付き合いいただき、ありがとうございました。
こんな “ オパール馬鹿 ” なワタクシですが、これからもどうぞ宜しくお願いいたします。
資源の枯渇が心配されるオパール
これからも、少しずつでも、皆さんに地球の産んだ宝物をお届けできるよう、頑張ってまいります!
ご清聴、ありがとうございました。